「健常者」と言いますが、障害を負っていない人など、実は一人もいないように観じます
仏教の説話で有名な、「死人の出ていない家からケシの粒をもらってこい」という、我が子を亡くした母親の気づきが得られる話がありますが、人は生きている限り、心に傷を負います
愛する人の死や、大きな事故、事件は、自分の心の傷やトラウマに気づきやすいものですが、日々の些細な出来事や不調和で起きる心のキズを、人はそのままにしているものです
特に現代では、スマホとネットの普及により、自分の意識は、ほぼ四六時中、外に向かうように自動的に動いており、自分の小さな感情の動きや起こりなどに気づく人はごくごくわずかです
それらはすぐには表面化しないので、目に見える不便がなければ、「健常者」と分類されているだけで、心を切って開ければ、そのなかはズタボロになっている人も少なくないのかもしれません
その心のキズや克服すべき課題を見ないまま、表面化されずに、「なんとなく幸せだったと錯覚して人生を終える」のもアリですが、なかには不調和が溜まりに溜まって、病気や人間関係の悪化などに表面化してくることも少なくありません。「錯覚して人生を終える」のはある意味幸せかもしれませんが、今回の人生の課題は持ち越しになるのではないか? という考えもあります
メディスン・セレモニーでは、毎回、必ず、絶対に、異なる体験をします
繰り返せば繰り返すほど、自分の意識やマインドがいかに自分の現実を造り、時には複雑化させ、不幸な事態を招いているか、小さな世界で生きてきたのか、という心の癖がえぐられてきます
そのとき、メディスンの効きに酔いながら、わずかにしびれるが自由に動く手を愛おしく感じながらも、自分の心に負ったキズに気づくのです