セレモニーに用いるメディスンを、幻覚剤と表現する人がいる。このテーマは、サイケデリック療法が確立された頃から議論されてきた。たしかに幻覚剤的な側面もあるし、反応は起こるときもあるが、実はそれらはメディスンの主目的ではないのかもしれない
幻覚剤であれば、もっとイージーで手っ取り早いモノに頼る方がいいだろう。また、幻覚作用やトリップ、何らかの「すごい」ビジョンを期待して臨むと、それなりの副反応に見舞われることもあるし、まったく何も起こらないこともある
メディスンセレモニーは、激しい嘔吐を繰り返し、涙と鼻水、よだれにまみれ、朦朧となった状態が繰り返され、まれに失禁、気絶する人もいる、ある意味、苦行なのである
しかし、この苦行は、実は人によっては爽快で、脱糞、前後不覚の状況を除き、吐くことを受け容れれば、なんてことはなくなる
これは、メディスンに常習性や中毒性があるからというわけでは決してなく、苦行の中の清々しさと感動を、魂が求めているとしか表現できない。自分のなかにあった不調和、新しい世界へ旅立つ決意を嘔吐のなかで気づき、セレモニーを終えた翌朝、いつもお天道様の光に涙する。そのとき、あの嘔吐の苦しさなどすでに忘れてしまっていて、あるのはただ感謝しかない
メディスンセレモニーには、一度たりとて同じ経験はない。つまり一回飲んだだけでは判断できない代物で、激しい嘔吐は苦行でもあるが、その後に訪れる光の体験は、愛としか表現できない
詩人、ジャラール・ウッディーン・ルーミーはこう言った。
「痛みの治療法は痛みにあります」