宮本武蔵は稀代の達人、向かうところ敵なしと言われた。実際に名うての兵法者だったからこそ、名前が知られているのだろう
しかし、ある宗教家が、こんな話をしていた
「宮本武蔵は佐々木小次郎と闘っていない。佐々木小次郎を袋叩きにしたのだ」
つまり、武蔵は小次郎と一対一の決闘などしていないという。武蔵は小次郎と決闘のつもりで呼び出したのだが、実際には小次郎を待ち伏せしていた複数の侍たちが小次郎を仕留めたというのだ
「武蔵、卑怯なり」というセリフも意味が変わってくる。また、武蔵が決闘に遅刻したのも後付けの創作で、小次郎との対決から以後、武蔵が隠遁し、書や絵に耽ったというのも、この一件に後味の悪さを感じていたからだという
歴史は勝者が綴るものとは言え、武蔵ファンからは叱られそうだ。一対一の決闘をしなかった理由なども特に聞いていないが、映像も残せない時代のこと、真偽のほどは誰にも分からない
さて、この宗教家は、どうしてこの「事実」を知ったのか? 彼は、その時代にタイムスリップしたというのだろうか?
答えは、、、
まさにその通り、時空を超えて当時まで見に行ったというのだ
私たちが小学生時代に習った歴史も、現代では否定されている部分も少なからずある。後世になり、遺跡などが新たに発見され、これまで常識とされていた事実がひっくり返されることも多々ある。しかし、果たして現代に生きる人間が、過去にさかのぼり、自分の目で過去を見てくることができるのか?
本稿は、意識や多次元世界をテーマにしていないので深く掘り下げないが、実際には不可能ではないということが、物理学者や量子力学の世界では少しずつ浸透し始めている。難しいのは、世界が多次元構造であるとしたら、自分がどのレイヤーに降り立ったのかを確認する術がないことかもしれない
さて、なぜこのエピソードを紹介したかというと、実は武蔵ではないが、他にも同様の話を聞いたことがあるからだ。存命のある武術家が、同じように時を超えて、自分がまだ生まれていなかった時代の有名な武術家の動きを見てきたというのだ
では、彼らはどのようにして、タイムスリップをしてきたのか?